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4回塗り 3回塗り 2回塗り 1回塗り
築5年を経過した板壁に渋墨を塗った見本です。
○使用目的は
(1)木造家屋の板壁に、木造板の塀を粋な黒塀に、補修にも
(2)板壁・古木再生に渋墨塗りを。
(3)床下、畳の下、天井・屋根裏の防虫・防腐に
(4) 小粋な犬小屋の塗装に・・・などなど・・ |
○使用方法
・少し沈殿する墨をかき混ぜるためにボトルをよく振ってください。
そのため、2リットルボトルに1.8リットルを詰めています。
・塗布面のゴミなど取り除いてください。補修の上塗りにもブラシ・タ
ワシでゴミを取る程度で塗ることができます。
・柿渋が鉄に反応しますのでプラスチック容器をご使用ください。
・好みの濃さに、乾いてから何度か塗り重ねてください。
・刷毛ムラが出なくて、素人の方でもキレイに塗れます。
・塗り面を擦ると墨が付きます。手や服の触れる処には不向きです。
・塗る木の種類、乾燥具合で仕上がり具合はそれぞれに異なります
のでご了承くださいませ。
○取り扱い上のご注意
・幼児の手の届かない所において下さい。
・強い力が加わると破損する恐れがあります。
・高温高熱な所には置かないでください。
・誤って飲まないように注意して下さい。
・衣服などにつくと落ちません注意してください。
・使用後はキャップをきっちりと締めてください。
・用途以外の使用には責任を負いません。
○用具の手入れ方法
・水性用刷毛をご使用ください。使用後は水で洗い流してください。
ところで、和歌山県かつらぎ町は柿の産地で渋柿の「核なし柿」生産量は日本一なんですよ。お正月の鏡もちの上に飾る串柿の産地。柿酢生産発祥の地で生産量日本一。甘柿は富有柿。渋柿の平核柿はガスやアルコールで甘柿に変身します。 |
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渋墨塗りの事例その2 渋墨塗りの事例その3 渋墨塗りの事例その4 渋墨塗りの事例その5 |
防虫・防腐・防湿効果の期待できる柿渋、シックで上品な墨の黒。日本古来の知恵を復元。 |
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外壁腰板張、戸袋に渋墨を塗ります。 |
刷毛に塗料を吸い込ませたあと、ポタポタ落ちないように毛を抑えて絞るのが塗装のコツですが、少々手荒くても大丈夫。 |
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素人でもプロ並みに塗ることができます |
日曜大工、いえ、日曜ペンキ屋さん 完成しました |
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紀の国渋墨に似た塗料についての説明
代表選手は
(1)オイルスティン
(2)キシラデコール
(3)オスモカラー
それぞれ塗膜を作らないで含浸して着色する塗料です。
解説不十分ですが、おおむね以上のところでしょうか。
渋墨との決定的な違いは、
・化学塗料に対して天然塗料であること。人畜無害であること。
・渋墨塗りへの補修は、ペンキを剥がすようなことはなく、ホコリをとってすぐ上塗りができます。
・1000年以上の実績と墨の精神文化は日本人の美意識の中に溶け
込んでいることでしょう。
・作業性では、技術者でなくても色ムラ・刷毛ムラなく塗ることができます。 Do It Yourself |
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オイルステイン
低粘度、液状で、刷毛などで塗布し木材に浸透し着色することができる。 着色剤であるため、物性を出すためには上塗り塗料の塗布が必要である。 木地に浸透させる必要があるため、ペンキ上からは、塗装できない。 塗膜形成成分は樹脂アクリル・ウレタン・アルキドビル油などである
キシラデコール
染みこんで着色する「ステイン」タイプの塗料。カビや腐れ防止を助けます。湿気が多く害虫の多い山の中でも安心な程の強力な薬剤を配合されているが、木材に浸透した後は、一度乾燥すれば外には出ていかないので、心配はいりらないとされている。アルキド樹脂とミネラルスピリットが主成分。
オスモカラー
植物油の亜麻仁油、アザミ油、ひまわり油、大豆油などとワックスのカルナバ、カンデリラがベース。主成分を液体にしておくための溶剤は薬用アルコールと同程度まで精製されたホワイトミネラルスピリットを使用している。
・ミネラルスピリットとは、石油系溶剤でテレピン油の代用溶剤として作られた塗料用シンナーのこと。 |
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柿渋と渋墨塗りのお話し
・渋塗り
建築関係辞典の「渋塗り」に、「柿渋を塗った仕上げ。含有タンニン酸による防腐効果がある。主として木造外壁に塗る」また「生渋には水分80%、揮発酸、タンニン5%が含まれ塗布されると揮発酸や水分が蒸発、揮発し、赤褐色の皮膜を生じ、水やアルコール不溶のものとなる」・・防水・防腐効果が記されている。
・渋墨塗り(墨渋塗り)
近世風俗史の基本文献といわれる「守貞曼稿」では、江戸の民家の下見板(壁の横板張りで、お互い少しずつ重なり合うように取り付けた板)などの板塀に墨渋を塗ることが日常的に行われていたことが記されています。
・熊本城の渋墨塗り
熊本城数奇屋丸改装工事に使用した塗料材料として、柿渋、膠液、油煙と記載されている。・・・「重要文化財の修復には柿渋をよく使う。柿渋は油煙やベンガラなどの顔料の溶剤と考えてよい。(略)1回塗れば5年ほどは持つ。」
・煤(松煙・油煙)と柿渋の混合について
「渋墨溶解法」という技術があるとおり、その混ざりにくさと、煤(墨)の扱いにくさが隘路でもありました。「木の国渋墨」は、その問題を解決しました。
・信州松本城・・カラス城の正体
美しい松本城は白と黒のコントラストでしょう。黒く塗られている下見板。漆で上塗りされているのですが、下地は松煙を柿渋に混ぜた渋墨が塗られています。木が柿渋を吸い込む力で墨粉を木材内部へ引き込むので墨が定着し渋が防腐剤の役目もして目止めと下地ができます。カラス城といわれるその黒はそもそも下地の墨なのです。 |
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秋田県角館町の黒塀(渋墨塗り)
現在も残る代表的な事例。武家屋敷で有名な秋田県角館町の黒板塀がある。「黒塀板には柿渋に煤をまぜたものを塗っていたと口伝されている。黒板塀は幕末まで遡れるであろう。柿渋を塗ると腐りにくく、もちが良いとされる。黒板塀は武家屋敷や商家が中心であるが、民間でも板張り(杉材)の部分には柿渋が塗られた。
柿渋の原料は「平核無」より丸みを帯びた「クモシカリ」と呼ばれる柿である。25年ほど前の黒板塀の大改修の折、柿渋に煤を混ぜて塗ったが大変手間が要って困った。当時はまだ板塀に柿渋を塗る光景が見られたが、現在は化学塗料を用いている」と話されている。・・・・
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武家屋敷や商家といった限られた階層の黒板塀にとどまらず、板張りなど、かなり広範囲にもちいられていたことがわかる。 |
以上、今井敬潤氏の著作:ものと人間の文化史115「柿渋」より抜書き、転載しました。 |
・京都祇園のお茶屋さんの家並みは黒壁、黒塀です。
白川沿いに粋な町並みが続きます。かつては渋墨塗りだったんだろうと思いますが、・・。ご存知の方がいらっしゃいましたら教えてください。 |
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(1)渋墨塗りの復活を「むらおこし・地域活性化」に位置づけて、商品化に復刻・開発をめざす。
和歌山県かつらぎ町は渋柿の一大生産地です。柿の消費拡大・需要創出は価格安定など地域経済、産業に貢献できる得るものと「むらおこし・地域活性化」に取り組んできました。
かつらぎ町には生食の柿、加工した串柿、あんぽ柿、つるし柿。さらに加工した柿酢があります。ところが、本町には日本各地にある「柿渋」の記録はありません。これを調査してみますと、奥が深く、科学的な研究、用途研究があまり進んでいない未開の分野であることがわかって来ました。
しかし漆器の下塗りや建築塗装の分野では優れた効果のあることが歴史的に実証(防腐・防虫・防湿さらにハウスシック成分の吸着など)されたものであることもわかってまいりました。
こうして、柿渋を作って塗料をめざす方向で検討を進めました。
そんな中、県伊都振興局農業振興課、和歌山県工業技術センター、近畿大学、かつらぎ町産業観光課、かつらぎ町商工会、郷土史研究グループ、防水塗装施工会社、エアゾール充填会社のアドバイスや機能試験を行っていただいた結果「渋墨」を復刻し、新しい紀州の渋墨として「木の国・渋墨」が誕生いたしました。
(2)柿渋による渋塗り、渋墨塗りの衰退の歴史
渋墨塗りは幕末まで武家屋敷、商家、町屋など広く一般的に使われていました。日本の伝統的な塗装技術でした。
ところで、恐竜がある時期に突然姿を消した事件がありました。それは巨大隕石の落下による気候変動だと最近認定されたようです。同じように、柿渋による渋塗り、渋墨塗りが忽然と消えてなくなってしまう出来事がありました。それは明治維新のようです。
「わが国で初めてペンキ塗装を行ったのは、江戸の渋塗り職人町田辰五郎で、安政元年アメリカ使節浦賀来航の際、通商交渉をする応接所建物外部のペンキ塗装が命じられた」(事物起源辞典)とあります。 |
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大政奉還から明治新政府は、欧米諸国には日本人が半未開の人種として「珍獣扱い」されているという極端に低い日本の国際的地位に危機感を抱き、そのための手段を選ぶ余裕すらなかったという当時の状況から欧米列強に陵辱されないように、必死の思いであったのでしょう。
明治新政府の欧化政策は、日本の文物・制度・風俗・習慣を否定。日本をヨーロッパ風にして欧米諸国に日本の近代化を認めてもらおうとして採った政策、それは鹿鳴館に象徴されます。
運命、因果応報といった科学で証明されないものは全て迷信として退けられるなど、明治維新の名のとおり、全てが「維(こ)れ新(あらた)なり」とばかりに、封建社会にあった技術までも否定されることとなったようです。
こうして、渋墨塗りも消滅してしまったのだろうと推測されます。現在、復刻や残されているものでは、箱根の関所、角館の武家屋敷、熊本城だけのようです。
(3)大和街道から全国の街道の歴史再発見に
かつらぎ町は紀ノ川と平行して、和歌山市にある和歌山城から奈良に向かう大和街道があります。大和街道は旧大和街道と呼ばれ、新しい街道は国道24号線となっています。
旧大和街道には和歌山市嘉家作の家並み、粉河寺、名手本陣、造酒屋、商家など歴史ロマンに浸る建物がたくさん残っています。これらの美観修復に、渋墨の塗装が貢献できたらと考えています。
大和街道から世界文化遺産の丹生都比売神社そして高野山への参詣道へと続きます。これら大和街道にも目を向けることが歴史を再発見し、地域の活性化につながって行くものだと確信しています。
また、全国の歴史街道の家並み、木造家屋、板塀などが渋墨塗りで修復され、格調高く復活されることを願っています。 |
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